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とことんトーク 12人が語るアートプロジェクトのこれから 全2日間総集編!

とことんとーく総集編タイトル大

2000年代、生活圏や風景のなかで行う芸術祭やアートプロジェクトが、各地へと波及し定例化していきました。 2010年代、本芸術祭第2回を行うにあたり、ゼロ年代を通じて浮かび上がったアートプロジェクトの問題とその意義について、実践、批評、研究などさまざまな立場から芸術に携わる12人のスピーカーと、客席を交えながらじっくり話し合いました。ここでは、2日間にわたって行われた10時間に及ぶトークの全文を掲載します。同じような取り組みの参考になることを願って…。

企画:竹久 侑 (キュレーター、水戸芸術館現代美術センター学芸員、本芸術祭ディレクター)

モデレーター:杉田 敦 (美術評論家、女子美術大学教授)

出演

雨森 信 (キュレーター、大阪市立大学都市研究プラザ特任講師、Breaker Projectディレクター、NPO法人remo理事)
大倉 宏 (美術評論家、本芸術祭アドバイザー)
小森 真樹 (ミュージアム研究、芸術社会、東京大学大学院総合文化研究科博士課程)
白川 昌生 (美術家、本芸術祭参加作家)
芹沢 高志 (都市・地域計画家、P3 art and environment統括ディレクター)
竹久 侑 (キュレーター、水戸芸術館現代美術センター学芸員、本芸術祭ディレクター)
丹治 嘉彦 (美術家、新潟大学教授、本芸術祭ディレクター)
冨井 大裕 (美術家、本芸術祭参加作家)
羽原 康恵 (取手アートプロジェクト実施本部事務局長)
藤井 光 (美術家、映像監督、本芸術祭参加作家)
吉本 光宏 (ニッセイ基礎研究所主席研究員、芸術文化プロジェクト室長)


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とことんトーク 1日目

杉田敦

杉田 敦

杉田: こんにちは、杉田です。普段は美術評論などをやっているのですが、今回竹久さんから話をいただいて、是非やらせて下さいということでやらせていただくことになりました。ただ1日5時間といっても×2で10時間とかなり長いので、昨日も少し打ち合わせをしたのですが、緻密にプログラムを組んでやっていきましょうとやってもかなり無理があります。長丁場になりますので、是非皆さん気楽にというかちゃんと自分の体調とかも考えながら、出入りも自由ですので、出入りされながら参加していただければと思います。また、発言もしていただきたいというふうに思ってます。通常だと、こういうパネル・ディスカッションとかをやりますと、パネラーの方それぞれに10分、15分ずつ話していただいてそれからじゃあ始めましょうという形になるんですが、なんせ人数が多いですから、例えば10分ずつ話すとほぼ100分になってしまって2時間くらいになってしまうんですね。なので随時そういった形で「じゃあ○○さん少しここでご自分の話をしていただけますか」という形でさしはさんでいこうと思っているので、最初はお名前だけこれから紹介することにして、あの人は何やってるんだろうというのはパンフレットの裏面を見ていただいて、その方がある程度まとまった発言をされるまではその情報でこういうことをやっている方なんだというように確認していただければと思います。

実際の話に入っていく前にですね、いくつか大きな芸術祭が日本でもしっかり開かれるようになって大変喜ばしいことなんですが、同時にいくつか問題点が出てきています。例えばアートで本当に地域を振興することができるのだろうかとか、あるいはそういった地域振興型のアートプロジェクトに関わったときに、アーティストはやりたいことができているのだろうかとか、あるいは税金を使って一部の人が喜ぶようなプロジェクトにお金が流れていくのはどういうことなんだろうかとか、あるいはアートのボランティアっていうけども僕がやったのは実際単なる労働ではないかとか、さまざまな問題点や疑問点というものがあります。あるいはアーティストが東京からやってきたんだけども、全然地元のことをわかってくれなかったとかいろいろな問題がそれぞれの局面で起こってると思うんです。そういったことをいろいろな形で話すことができればと思っています。今日はまだお2人、いらっしゃってない方もいますが、最初にお名前を紹介していきたいと思います。こちらのチラシ順にやっていきますのでちょっと起立してお顔を見せていただきたいと思います。

最初はさまざまなアートプロジェクトをされている雨森信さんです。それで今回のディレクターをされている竹久侑さんです。同じく今回のディレクターの1人である丹治嘉彦さんです。芸術社会学の研究をされている小森真樹さんです。アーティストで参加作家でもあります白川昌生さんです。取手アートプロジェクトの理事でもあるアートコーディネーターの羽原康恵さんです。今回の出展作家でもあります藤井光さんです。さまざまなアートプロジェクトを実際に運営されてきた芹沢高志さんです。 ニッセイの基礎研究所で文化政策などの研究をされアドバイザーをつとめておられる吉本光宏さんです。

最初に口火を切っていくのはとっても難しいと思うので、どなたにしましょう。誰も視線を合わせてくれない…。(笑)まず大局的なところと実際の経験を踏まえつつということで、僕の隣で嫌な予感をされていると思うんですが芹沢さんお願いします。

地域アートプロジェクト――ゼロ年代の経緯

芹沢高志

芹沢高志

芹沢: すみません、ほとんど打ち合わせも何もしないで来たもので。でも後でまとめてスライドでお見せしようと思うんですが。確かに今度のテーマというのは竹久さんからお聞きした時も「そうだよな」と思ったんです。詳しい話はしませんけども2000年代というところを通して僕の場合には割とこういう大型のフェスティバルのディレクターをやることが多かったんですよ。もちろんそれは僕自体の興味は風景とかそういうものがあったわけだから動機としては真っ白い美術館の部屋ではないところで何か作品を展開していくっていうのがすごく興味を持って最初は始めていったわけだけど、当然それはそこで生きている人がいたり、風景っていうのはいろんな生き物が形づくっていたりするわけだから、一方的にアーティストの思いとかディレクターの思いを押しつけることはもちろんできないわけで、やりとりしていくなかのおもしろさと大変さみたいなものをだんだん実感してきました。

それは今も続けているんですけれども、それと同時に2000年代っていう時代がね、乱暴に言うと前半部分で、やっぱり小泉構造改革ではないけどもそういう日本の社会の時代的な変化が出てきたと思うんです。いろんな地域を回っていて、2000年代の前半部分においてものすごく地域、特に中核都市といわれているところとかの疲弊みたいなものも目に見えて感じたりして、その一方で2000年くらいから越後妻有(の「大地の芸術祭」)とか「横浜トリエンナーレ」とか超巨大なフェスティバル型のものが進む。僕自体はアサヒビールと組んで「アサヒ・アート・フェスティバル」って全国のアートNPOとネットワークを組んでやる仕事もしているんですけれども、ここんとこでやはり2005年に一般公募したときに日本中からいろんなアートNPOが応募してきて、初めてそこのところで一堂会いましてその時のことをすごくよく覚えていて…。そういうふうに例えば札幌から出てきたり那覇から出てきたり、それぞれ最初紹介しないとうまく進まないんじゃないかと思って事務局的にうまくお膳立てをしないといけないと思っていたんです。でもね、実際やってみたらいっぺんに事務局が介入する必要もなく勝手に話が始まっていって、それでいろんな人たちが抱えている問題とかなんかがそれぞれ孤立して、なんでそんな地域でアートなんかやるんだとけっこう悩んでいる人たちが割といっぺんに集まったもので、爆発的にネットワークができていった日のことをよく覚えています。2005年くらいのところで一個大きなディレクションをドーンとやっていくのと違う、草の根といっていいのかわからないけど、そういう小さいものとか弱いものが結びついて何かの動きをつくっていくっていうのも2000年代の真ん中あたりから出てきたと思いました。その方向がどんどん5年ぐらいすすんでいくなかでもう一方大きなフェスティバル、例えば瀬戸内だったり愛知だったりすごく大きなお金も使い、興行的にも成功するといったものがでてきて、もう一方ではすごい町中の小さな商店街の親父さんたちが主導したり奥さんたちがやったり、本当に小さい町の中で起こっている動きっていうのがこっち側であったり、今すごいこういうふうに分極化しているなと思っているときに、改めて言う必要もないけれど昨年3月11日が来るわけで、我々が10年くらい抱えてる日本社会としての閉塞感みたいなものが、ある種地震とか原発みたいなものでぱーっとこういうふうに見えてくる。そこのところでどういうふうに行動したらいいのかみんな模索しているところだと思うんだけど5年ずつくらい大きな変化があったのではないかと思いました。

杉田: 今芹沢さんがおっしゃられたように、2000年代に始まった日本の場合は越後妻有(の「大地の芸術祭」)の功績が非常に大きくて、それの効果の部分が見えてきて、それに対して各自治体いろいろ運営団体がそれ的なよい部分を利用しながら何かアートプロジェクトできないかっていう動きが急速に広まるっていうのがあって、それがたぶん311によってその意味を見なおそうっていうような気運も一方ではあると。大きな流れを具体的に話をしていただいて示していただいたと思うんですが、また個別で芹沢さんがやられていた1個1個のプロジェクトなどについては午後のブレイクをはさんで後半の冒頭でプレゼンテーションをしていただこうと思っていますのでそのときまた詳しくしていただけると思います。 今芹沢さんが整理していただいたような大きな流れを今度は逆に、調査するというか研究するという立場に立っておられる方が2人おられると思うんですが、小森さんと吉本さん、今芹沢さんが2000年からの大きな流れというのを示していただいたと思うのですが、それについて補足やこういった部分もあるということがもしあればお願いできるでしょうか。

小森真樹

小森真樹

小森: 小森真樹です。よろしくお願いします。今のお話と関わるので自己紹介も挟みながらお話しさせていただくことにします。今芹沢さんからお話しいただいたのは、大型の芸術祭のことと、背景として社会がどうなっているかということで、そこで現在の芸術祭などの基礎をつくってきたような芹沢さんたちや周辺の方々が具体的にどういう動きをしていたか、アートスペースが美術館を超えて社会に拡大していく歴史の概観だったと思います。

それに対して僕が今日ここに呼ばれたのは、大学院で芸術社会学を研究している立場からの視点と、もうひとつが実際に現場でアートプロジェクトをやっていた当事者の立場からの意見を求められてのことだと思います。2010年夏のことですが、僕は実家の岡山県でアーティスト(三宅航太郎、蛇谷りえ)の2人と3人でチームを組んで「かじこ」という期間限定のゲストハウスのプロジェクトをしていました。「瀬戸内国際芸術祭」の開催期間にほぼ合わせてオープンして、瀬戸内への窓口になっている岡山市を会場にすれば人が来てくれるんじゃないかと。ゲストハウスなので来館者は宿泊することができるんですが、そこに同時にアーティスト・イン・レジデンスであったり、ギャラリースペースやイベントスペースであったり、地域のコミュニティスペースであったりというさまざまな機能をあわせてスペースを運営するという3ヶ月間のプロジェクトでした。竹久さんは実際に来て下さったんですが、僕が研究者と同時にプロジェクトのオーガナイザーという立場を兼ねているところに興味を持ってくださったようです。

小さなプロジェクトの当事者という立場から言えば、先ほど大きな歴史的な流れのなかでお話しいただいたなかで、2005年頃に「下からの流れ」が可視化してきたというご指摘がありました。 「トップダウン/ボトムアップ」という言葉が適切なのかはさておき、下からのアクションが大きな芸術祭の流れにうまく絡みあい始めたのが2005年頃だとすれば、それは活動していた当事者としても感じていました。僕が大学に入ったのが2001年のことですが、研究だけではなくてアートに関心を持って友達と遊んだりしていて、やはり大きな芸術祭だったり何らかのアートイベントに遊びに行くなかで、実際に「お客さん」として参加するだけではなくて自分たちでも何かできるんじゃないかというふうに実感し始めたのが確かに2005年頃だったかと思います。実際に「瀬戸内国際芸術祭」なんかの大きなアートプロジェクトと絡めた形で「かじこ」の活動を起こしたのは2010年のことだったんですが、既にある舞台じゃなくて、自分たちで何か企画ができないかとか周囲と意識を共有し始めたのが2004~5年とかその頃だったように思います。個人的な実感なので補足になったかはわからないのですが、もしかすると、例えば竹久さんのように既に大きな美術館で何か経験があってそちらの方に参加していくのではなくて、単に一観客として楽しんでいた人たちが何か自分たちもプレイヤーになれるんじゃないかというような実感を持ったことは現場の活性化にはやはり大きいのではないでしょうか。自己紹介からこうした実感を紹介しておきたいと思います。

アートプロジェクトとアートNPOの関係

吉本光宏

吉本光宏

吉本: ありがとうございます。ニッセイ基礎研究所の吉本と言います。 アートプロジェクトに関して体系的に研究したわけではないので、まとまった話がうまくできるかわかりませんけれども、先程芹沢さんがアートプロジェクトが起こってきた流れを俯瞰してくださったんですが、もうひとつそれと並行して起こっている大きなことが市民とかNPOとかの動きだと思うんですね。今日ここに参加されている雨森さんもいくつかNPOを作ってアートプロジェクトをやられていますし、それから芹沢さんが関わってらっしゃるBEPPU PROJECTもNPOが主導している。つまり、アートプロジェクトとアートNPOっていうのは日本で並行して大きな動きになっているのではないかと思います。

NPOの方で言いますと、2003年に神戸で「第一回全国アートNPOフォーラム」というのが開かれまして、それまでは全国各地でみんな地域に根ざしてアートで何かできないかって、ある意味孤立してみんな頑張っていたんだけどどうにもいかない状況になり、それをみんな集まって話しましょうというので2003年神戸で行いました。その後も、フォーラムは毎年開かれているんですけれどもおそらくその時の議論が一番熱かったのではないかと思います。 全国で情報を共有して大きな動きにしていった方がいいよっていう意見の人がいる一方で、そんなの作る必要ないよという人が明らかにいて、けっこう熱い議論になったんですが結局ゆるやかなネットワークを作ろうということで幕が下りました。以降毎年全国各地を回りながら、フォーラムというのが行われていて、2006年には「アートNPOリンク」というそれを推進するためのアンブレラ・オーガナイゼーションがきました。1回目の2003年は神戸のKAVCっていうところで公開で行われたんですけれど、実はその前のプレイベントが同じ年に横浜で行われました。  横浜のバンカートが開館する前に同じ建物でそれをやっているんですね。ですから以降あちこちを転々としていくんですけれどもそれぞれの場所で使われなくなった遊休の施設などを使ってですね、なんか閉ざされた場所があるけどなんだろうというところをわざとフォーラムを使って開けていくことをずっとやっています。例えば淡路島でやったときは2008年か9年だったと思うんですけど、淡路の真ん中に赤レンガの倉庫があってそれはずっと使われてなかったんですね。それで淡路島アートセンターだったかな、山口さんっていう方がやってらっしゃるNPOの方が中心になって市と交渉して、そこを開けてもらって、フォーラムのためだけに電気を引いて、さすがに水まではできなかったのでお手洗いはバケツに水を汲んでおいてみたいなね。そうやって開いていってるんですね、そういう動きとアートプロジェクトというのはすごく有機的につながっている。

アートに限らずNPOが制度化されたのは1998年にできたNPO法なんですけれども、それができるきっかけが1995年の阪神淡路大震災なんですね。ボランティアが活躍したから日本もNPOが活躍する仕組みを作りましょうとできてきたというのがあって、実は今日本で認証されているNPOは4万5千件くらいあると思うんですけど、1998年の法律が成立してから1日あたり10件以上NPOが誕生してるんですね。すごい数なんです。そのうち学術文化芸術またはスポーツの振興っていうのがNPO法の第7号の目的に規定されていて、それを定款に掲げているNPOはだいたい3分の1あると言われています。 ですから4万5千の3分の1といって約1万5千ですよね。

 

1万5千の中にスポーツや学術もあるので、単純に3分の1したとして5000件ぐらい。そういうものが全国で動いていると。もちろん中には趣味の会的なNPOもいますから、社会に対して何かするという意識のないところもあると思うんですけれども。ですからこのアートプロジェクトというのは、全国で昔から従来の劇場や美術館の中で行われるものとは違う形で市民に何か芸術の問いかけが行われている動きだというふうに私は思うんですけれども、そのこととNPOの動きというのはすごくリンクしてると思うんですね。

羽原康恵

羽原康恵

羽原: どうも茨城県の取手市から参りました。取手アートプロジェクトの事務局長をやらせていただいております羽原と申します。今アートNPOという点で一応補足しておかないとって。遅ればせながらなんですが、人口11万くらいの都市なので新潟とは比べ物にならないんですが、都心から40キロくらいの取手市という郊外都市でのアートプロジェクトをずーっと実行委員会形式でやってきたものの、実際の継続性を考えたときに、単年度ではやりたいことが実現しえないだろうということもあって、その運営の基盤、お金の部分とかも法人格をとる必要があるだろうということで今はNPOの事務局が実行委員会を運営する事務局であり事業全体をまわす事務局でもあるという機能をしています。なので、NPOによるアートプロジェクトとして連動している事例としては取手もあるのではと思います。

雨森 信

雨森 信

雨森: 雨森です。大阪でremoというNPOを立ち上げて運営していたり、大阪市の文化事業として大阪の新世界、西成の下町で「ブレーカープロジェクト」という地域密着型アートプロジェクトを企画しております。先程の吉本さんの話を受けて、アートNPOとアートプロジェクトの関係なんですけれども、私も最近考えているのは、美術館やアートセンターと違ってアートNPOは最初から行政の予算がついていたり、場所があるわけじゃなく(行政からの予算が最初からついているというところはほとんどないのではと思うんですけれど)活動場所を探したときに、安くて借りられるスペースっていうのは、町中のシャッター街になりつつある商店街の空き店舗ですとか古い空き物件になっていくわけです。そういった場所を使うときに地域との関係を作らざるを得ないというところから関係づくりが始まって、アートプロジェクトにつながっているんではないかと考えています。

地域アートプロジェクトの興りに対してアーティストは?

杉田: 今たぶん、小森さんの大きく整理するとボトムアップとトップダウンっていうのでボトムアップの方の動きを下支えするというような形でNPOというのは増えてきたって理解していいと思うんですが、おそらくアーティストの方っていうのはそういった組織未満の活動をそれこそたくさんされています。例えば藤井さんとかも個人の活動もされてますけど、comos-tvとかもありますよね。いろいろな活動をされていて、それが組織として知っている人は知っているんだけど、NPOとかそういうものでもないし、何かある種の団体、言ってみればボトムアップの本当に下の部分です。comos-tvもそうだしあるいは僕らもよく関わっているCAMPもそうだと思います。そういったような活動を実際にされている一方で、大きなアートプロジェクトにご自身の活動として入っていく立場ではどうお考えなのでしょう。

藤井 光

藤井 光

藤井: はい、藤井です。

 

「水と土の芸術祭」に出展するということでこのような大型の芸術祭に関わっていますが、今杉田さんがお話になられたように、大きな枠組みを持たない自主的な活動をいろいろとやっています。 そのひとつがお話にあったcomos-tvというアートに関わるさまざまな人々が番組の内容や構成を手がけるインターネット放送番組などがあります。また、僕は自分のアトリエを開放して、居酒屋での話を今日は禁酒でお願いしますという形で話し合いができる場を作っています。その話と今回の芸術祭をどう結びつけていくかというアクロバットな課題は難しく、その話はもう少し自分の中で整理してから話していきたいと思います。

まず、2000年から今日に至るまでの話がされていたと思うので、今までの議論の補足として、ひとつデータとして、2005年に日本にやって来た自分というか、それまで10年間ヨーロッパで活動していて、2005年に父が突然亡くなり一時帰国という予期しなかったことが起こり、ただ帰って来るのもなんだと思って、茨城のアーカススタジオというレジデンスに行きました。そこで半年ほど活動してヨーロッパに戻ろうと思っていましたが、アーカス滞在中に日本の文化状況に興味を持ち始めてしまった。どういうことかというと僕がアーカスに行った年にレジデンスの予算が落ちているんです。  それまで半年間の滞在期間だったものが5カ月間に変わっています。 予算の関係上。そして、アーカスの事務局側から、地域と連帯したワークショップをやってくれないかという依頼を受けるんですね。その背景にはアーカススタジオが市民の税金を使っていますので、税金をどう市民に還元するかという問いが極めて具体的な形でアーティストの課題となってきます。アーカススタジオというのはヨーロッパ型アーティスト・イン・レジデンスをモデルにしているので、基本的には滞在中は制作に集中できます。一方で、もし可能なら市民と関わるようなワークショップをやってもらうと嬉しいなという雰囲気もありました。というのをデータとして出しておきます。  2005年です。

杉田: それさっき最初に芹沢さんが言われていたようなことと関係あるんですかね。ボトムアップ的なものが上がってくる時期と、ちょうどその時期的には一緒なのかもしれない。一方ではヨーロッパ型といって括ってもいいのかもしれないですけど、北九州のCCAのようなアーティスト・イン・レジデンスはしっかりと海外では認知されている。あるいは神山でやっているKAIRというアーティスト・イン・レジデンスがあって、そこもかなり運営側の意識が高くて、地域への還元という部分が許されているというところもあるかと思う。むしろそういったことをあまりアーティストの場合、今日まで、藤井さんの場合も強要されてこなかったと思うんです。やらなくてもいいですよということだったんですけど、そういう気運に群がってはいけないというのもある。少し整理してお話いただきたいと思うんですけど、藤井さんと同じようにアーティストの立場で関わられているお2人、丹治さんと白川さんにお話を伺ってないのですが、丹治さんと白川さんそれぞれ立場もかなり違うですね。丹治先生の場合は教育の場にもいらっしゃって、なおかつ今回ディレクターの立場に関わられていて、ちょうど中間地点をよくご存じだと思うんですけど。

丹治嘉彦

丹治嘉彦

丹治: 中間地点を行ったり来たりしてなかなか明確に答えが出しづらいところがあるんですが、個人史的なことを話させていただくと1999年にアメリカのバーモントにおいてレジデンスを経験してきました。その後2000年に「大地の芸術祭」に参加したが私の中では大きな境目になっていて、それまでは活動の形態にいわゆる画廊であったり美術館であったりっていうのが作家としてのいわゆる決まり事であったような気がしてました。でも2000年の「大地の芸術祭」で、こんな場所でアートが機能するんだ、あるいは人がこんな風に動きを出すことでアートの断片が見れるんだというのが私の中では相当大きな振り幅があって、それが基盤となって私自身が大学というところにいる関係上、やはり教育というものにも当然関わっていかなきゃいけないと。

2001年から大学がある町でプロジェクトを始めました。シャッター街になっている中で、ここに作品や行為があったら、あるいはここで新たなことが展開できたら何か新しい道筋が見えるかもしれない。学生と地域の人とできることで新たな可能性が見える。そういう仕組みができたらおもしろいかなというところが出発点になっています。

 

ものをつくるという立場ではあるんですが、制度の中で起きていること、何の疑いもなく美術館であったり画廊が存在している中、逆にその反対側においていろんな人の絡みが生まれること、あるいはそこで新たな時間が生まれること。2000年以降のアートの仕組みに寄与してきたのかなと感じるところではあります。

杉田: 白川さんはどうでしょう。ヨーロッパの現状とかももちろんご存知ですし、日本固有の問題点というのも当然感じられていらっしゃると思うんですけど、そういう視点からみてどうでしょう。

白川: 私の場合は今2000年から2010年の話になっていますけれども、私という人間は90年の初めの頃、94年ぐらいから前橋の町なかにある古い建物、明治時代に作られた建物があってそれがもう日本の高度成長期の流れ、70年代以降の中では使われなくなって、歴史的な建物としてただ残されている。その場所を美術的なアートを発表できるんじゃないかと提案して活動をし始めたんですけども、初めいろいろ教育委員会と議会がなかなか難しくて、許可をもらって展示を始めていくような活動をしていきました。それもなんか日本でバブルが弾けて、私が勤めていた専門学校が倒産したので私は職を失って、空白状態というか。そういう中で発表できる場所が何にもなくなってきた中で、自分が地域で活動していたことの核として前橋の無人駅の場所を使ってゲリラ的ですけれどそこで活動する。 地域の中に残されたさまざまな場所が記憶を持っていたり歴史を持っていたりということをあえて取り上げたりすることもアートとして必要なんじゃないか、と私は考えてそういう活動をしました。それから2000年に初めて第1回目の「大地の芸術祭」に参加したんですね。その時にですね、あまり肯定的ではない経験をして結局私が関わった村の人たちは妻有トリエンナーレ、まぁ1回目でしたからあれでしたけど反対の人が多くて、なんでこんなことやるんだと言われたんですよ。場所を見に行ったんですけど、ずっとなんでこんなことするんだ、お前は自民党か公明党か!そういうものが村に絡んでいるんですよね。 たまたま僕の名前が白川だったんですけれども、そこの地域にそういう名前の政治家が出ていて、初め着いたときは、その親戚かって聞かれたんですよ。釈明から始まって、名前は同じなんですけど親戚でもなんでもありませんというところから話が進んでいくと、どんどんどんどんさまざまな問題を村の人から言われて、それで私もなんかそれまで北川さんに声をかけられて活動して、その時も疑問を感じたんですけど妻有ではガツンと疑問を感じて正直なところ(それ以降)私、妻有に行ってないんですよ。それで北川さんとの関係もなくなってきたんですけれども。今はすごく妻有では賛成者が増えてよくなって、たまたまこの3日ほど毎日新聞の全面広告で妻有の案内が出ていたんです。 妻有トリエンナーレ、宿屋とか、観光としてのちゃんとした宣伝が入っていて、ここまでついになっちゃったんだ、すごいなっていうか。 1カ月前には新幹線の中でカラ―の雑誌が出ている無料の、その中に妻有の特集がカラーで全部出ていて、至れりつくせりのきちんとしたプレゼンテーションがあったりして、それを見て一番最初との落差が。僕はやっぱりくじけないで黙って北川さんについていけばよかったのかな。(笑)その後に瀬戸内とかに、知っている当時出たみんな同じような作家の人たちが出ていますから、まぁそういうことがひとつ疑問というか自分の中で地域の人との関係、アートがそういうことできるんだろうかということを考えなきゃいけないということと、もうひとつは難しい問題ですけれどもやっぱり僕はそういうズレを感じたのが2005年あたりだったと思うんですけれども、前橋の商工会議所で文化メセナの話があったんですね。地域の会社の人を呼んで取手のプロジェクトを見せてこんなふうに素晴らしく芸術はなります!アートのためにお金を出して下さい、支援してくださいってやってるんだけれども、みんな経済的に良くない群馬の状況なんですよ、ほとんど基幹産業の織物がなくなって、ほとんど自動車も群馬からいなくなったし、ほとんど地元に産業という産業がない非常に疲弊した状況の中で、そういうアートによって町づくりができるっていうことを伝道師のような形でこられていて、まあ日本中でこういうことが行われているのかなと思ったんですが、本当にこれでいいんだろうかということを感じたんですね。あとは2005年というのがちょうど前橋で全国アートNPOフォーラムがあった年で私もなぜか呼ばれて。

 

なぜかって私が行政に逆らう人間だっていうことで、だいたい公の場から排除されてきたんですけれども、なぜかそのときは呼ばれて参加したんです。その時に前橋の中でアートNPOを立ち上げたいという若い人たちがいて、立ち上げたんですね、ところがなかなかうまくいかない。先程から出たようにうまくいった人もいるんだけど、うまくいかなくて消えていくというか。僕なんかも行政指導の入念な町おこしに関わったことがあるんですけど、行政が求めているものとアートNPOに関わっている人たちのイメージのズレが大きくて、端的に行って行政の方は成果を求めるわけですね。例えば新聞に出た記事もそうだけど人数が何人集まったとか土産がいくら売れたとかね、将来これが更に黒字になるみたいなそういうことを言い続けなきゃいけないんだけど、僕らがやったものでは不可能だったので、赤字出してできないってことを言ったんですね。でもあなたたちは若者を支援するというか若者を頑張ってほしいということでやってるんだったら、一年で黒字になるわけないんだから、5年ぐらいの年度みてくれないですかっていうふうに嘆願したんですが、はい終わりーみたいな感じで。そういう経験から2度とあそこにはいくもんかとね。もう金がなくてもいいから自分たちでやるっきゃない。行政には頼らない。観客がいるとかいないとか人数が何人来たとかそういうことを考えているより、自分たちの表現を小さいところでいいからこつこつ集まってやるしかないみたいなそういう思いをしました。

地域に何を残せるか

杉田: 今の白川さんの発言の中に今回話すテーマ全部入っていたと思うんで、全部を一気に取り上げることもできないんですけれども、順を追ってそういう話ができればと思います。特に最初に言った地域に対して何をバックできるんだろう、あるいは何をできるんだろうということ。

 

それは行政の思惑と、実際の運営者との思惑がずれているのが、かなり大きな問題だと思うんですね。たぶん行政と地域の問題にスポットを当ててもいいんですけど。行政主導の今回のようなアートイベント、「水と土の芸術祭」もそうだと思うんですけれども、それとNPOとかのボトムアップ的なものをベースにした活動との大きな違いは、継続性だと思うんですね。昨日もこの会で何を話しましょうと飲みながら話していた時に、どうやってこれを継続させていくかということがあがって、それは後継者の育成も含めてなんですけれども、どうしても単発的なアートのイベントとかプロジェクトというのはそこでの成果がすぐその場で求められて、かなり短いスパンで支援を打ち切られるということがあったりするわけですね。「水と土の芸術祭」もディレクターっていうのは継続して次にもやってもらいましょうってことではなくてまたゼロからになるとか、さらに行政の担当者っていうのもまた全部変わってまたゼロから作らなくてはならない。それに比べるといろんな問題があったんだけれども、越後妻有はその辺をうまく調整しながら今回で5回目ですね。希有な事例なんですが。継続させていくという意味では、実際今回運営されていて、また継続性の問題あるいは前任者の実現とかいろいろな問題について感じられている方は2人いらっしゃると思うんですが、丹治さん、竹久さん、どうでしょう。

竹久 侑

竹久 侑

竹久: まず私は、水戸がベースで水戸芸術館現代美術センターの学芸員であるということと、また美術館の職務とは一線を画す形で任意団体のメンバーでもあって、そういったふたつのレベルの活動をしているという立場にあります。それは長い目で見て自分たちが本当におもしろいと思うことをすることが町をおもしろくすることになるんじゃないかということで、別に「地域のため」とうたわないですし、普通に自分たちにとっておもしろい企画をしようと、本当に個人的な衝動や欲望で集まって仲間ができて、仲間ができたからこそ1人じゃできないことができて、細々ではありながらも何らかの流れがうまれていくような例が、私の関わっている水戸の任意団体にはあります。一方で、水戸芸術館の学芸員として、館外で展覧会に限らずプロジェクトを行っていく上で地域にどう関わっていくかっていう別の問題もあるんですが、どちらにしても水戸の場合は継続性も含め長い目で見た上での効果しかみてないんですね。だけども新潟に呼ばれたときにさて第3回はどうなるかはわからないと言われているので、これが成功すれば次の市長がやりたいって言うかもしれないけれどという話だったんです。私の中では、芸術祭というのがこのままこの規模で残っていくのが一番よいとは必ずしも思っていない部分があります。何らかの形で効果というか成果が出てくるべきだし、そういうつもりで企画に取り組み作家を選んではいますが、それイコール同じスケールの、例えば税金を使って芸術祭を次もできるというのが成功の証明ではないと思います。本当はもっと見えにくいところで、この芸術祭が示したあるプロジェクトに関わったことで仲間が増えて、地道に動き出していくとか、ちょっとさびれていた商店街のシャッターが開いて人の動きが活発になり始めるとか、そういうことの方が喜ばしいと思うんですね。それが地域振興なのであればアートができることもあると思うんですけれども。そういうことを考えながら今回もやっています。

丹治: 私は竹久さんと同じ考えのところと、またさっき白川さんがおっしゃられたところと別な部分を感じているところがあります。例えば、どれだけ人が入ったかがフェスティバルの優劣を決める。 それは全然僕は悪いことじゃないと思っている。例えば瀬戸内で90万人入った。それがある意味興行優先的な面が独り歩きしているところがあり、フェリーに乗れなかったり長蛇の列をみたりすると私も何のための芸術祭なのかなという感じを得たということも確かなんですけど、例えば逆に、東京の大きな某美術館で印象派の展覧会に何十万人入ったと、そういう来場者の多い展覧会が美術としての価値を有しているのかっていうと、私はそれよりもむしろ、こういうプロジェクトに人が入って、その入った人たちの中である種の気付きが起きているとは思うんですね。人が入れば、そこでお互いの何かが微妙に変わってくる情動的な変化はあると思うし、それ自体否定はしないつもりです。私も実はいろんなところで泣いたり苦しんでいるんですけれども、でもやっぱりこの芸術祭の結果が出たときに、ある程度覚悟していた部分もあるし、どこかでできればみんなと笑えればいいな、楽しかったなという瞬間を共有できることこそがゴールだと思ってみんなと邁進しています。ただやはりそう言いつつも、私は大学で「うちのDEアート」というのを年に一度やっています。本当にさびれた商店街で学生ならび地域の人たちと一緒にフェスティバルを行うんですけれども、実はそのアートというよりは盆踊りを一緒にやったりとか、あるいは夏祭りで一緒に神輿を作ったりとか、2年に1度はプロジェクトを行っているんですが、そういう行為は毎年行っています。今の若い学生なんか絶対そんなのやるはずないと思っていたんですけど、こんなこと言うと怒られちゃうんですけど、すごく興味を持って取り組むんですね。我々もすごくおもしろくて、そういった冠をつけてそれに向かって動くというより、その前の出来事の方がおもしろく、人が絡みながら時間が動くことは、今言った大きな来場者数の問題とは別という気がします。私自身は今日のトークで何か投げかけるというよりはむしろそれは皆さんにお聞きしたいなといったそういう場面であるんですね。誰が主役なのということしか投げてないんですけど、大きいプロジェクトの中でのその問題点もあると思うし、そこで今までの日本美術を考えた時にそこでの功績もあると思うし、あるいは小さなプロジェクトの中でも問題点をはらんでいると思う。むしろその時間で得られるものの気付きも生まれて来る、そのへん僕は皆さんに逆に投げかけてお聞きしたいなということであります。

 

竹久: すみません、ちょっと補足させて下さい。さっきこの芸術祭が成功して同じようなものが次もできるということが成功の証明ではないと思うという話をしましたが、私が興味深いと思っているのが別府なんです。別府が1回目と今回とで展開ががらっと変わったじゃないですか。まず出品作家の数が少なく絞られていて、じっくり付き合って何かを作るタイプの作家をお選びになっているんじゃないかと思うんですね。同じ芸術祭の枠組みの中で1回目と2回目で大きく変えようと思った気持ちとか、それはまあ別府の違う部分を見せるというところもあるんでしょうが、何か運営面とかで考えた上でもたくさんの人数よりも小さな人数でって思った何かがあったのかなぁと、ちょっと憶測ではあったんですけど思っていたというのがあって、そのへんはどうでしょうか、私自身人数がたくさんの、いわゆる祝祭的なフェスティバルっていうものを越後妻有がつくりあげてきた有り方で、みずつちも同じようにやっているんですが、その方法論ではない方法っていうのが同じ行政主導でもあり得るとおもしろいなと思ってるんですね。違うやり方っていうのがもしこれが成功して3回目があるときに模索できるのであればすごく意義があるなと。いろんな1回目と2回目の課題を踏まえた上で、その辺の構築からディレクターとかプロデューサーにあたる人が考えるっていうところから入っていけばちょっと新しい展開が生まれるんじゃないかなと思っているので、別府のお話をお聞かせいただければと思うんですけど。

芹沢: 1回目と2回目はいろんな成立のための条件が変わったのは確かなんですけど、人数のことで言うと考え方は変わってなくて1回目も実は少ないんですよ。別府のフェスティバルについてご存知ない人が多いと思うんですけど、あの時もビジュアルアーツでは8人だけだった。他にダンスとか音楽もありましたけど。ひとつだけ古いアパートを若い2人のアーティストに管理人みたいなのをさせてそこから勝手に呼んでいいよっていうようなプロジェクトを一個作った。

 

遠藤一郎たちは最初20人くらいでいいやって、で、勝手にやってって。そのやり方は「横浜トリエンナーレ2005」のときに考えたようなやり方をそこの中に移植させてやったのね。そしたら20人なんてものじゃなくてどんどんどんどん増えていって、誰が来ているのかも分からなくなって、あそこだけで140だか150だか来ているか、それを足して1回目は170数名の参加作家がいてとかいってもいくら聞いても全然実感はなくて、だから付き合っている数っていうかプロジェクトの数は本当に同じようなもんなんです。

でも1個だけ言わせてもらうと竹久さんが今おっしゃった意見は僕自体もすごく考えるところがあって、自分の体質からも100人規模の大型フェスティバルっていうのが合わなくて、一番最初にやった帯広のプロジェクトは8組くらい。それくらいの、そもそもおもしろいなと思ったら1人とか一組のアーティストとじっくり作っていくというのがおもしろかったから、そういうやり方は変えられない形で続けているんですよ。

 

杉田: 今竹久さんが指摘した問題ってすごくおもしろいですね。北川さんは大学で立ち話しをしている中では、本来越後妻有はもう少し小さい規模であるべきだと言っていて、つまりそれは明らかにそこの社会構造からみて大きすぎるわけなんですね。もともと彼らが越後妻有のモデルにしたミュンスターの彫刻プロジェクトをみてみると、やはり町の規模とあんまりアンバランスじゃなくてちょうどその適正規模っていうのがあるんじゃないかなという感じがするんですね。ただ、どうしてもその、難しいところで、先程丹治さんが来場者数っていうのは一概に否定できないとおっしゃいました。その通りだと思うんですが、例えばそこを確保しようと思った時に今度はどちらかというと人数を増やす方に動いてしまうか、あるいはちゃんとビックネームを呼んでくるとか、いろいろな形をとっちゃうわけですね。けれども、おそらく町とか行政区に対して適正規模のプロジェクトっていうのはあって、それがどうもアートの中では曖昧にとらえられているところがあるんじゃないかと思うんです。ただこの話を伺っていると、アーティストは常に恒常的にやっている活動があって、時系列上でここで大きいことをやりますよ、みたいなのを行政が用意すると、どうしてもその中にうまくアーティストたちの恒常的な何かが取り込まれないんじゃないかと思うんですよね。もちろん先程丹治さんが言われたように、そこの中でアーティストが活動して起こっていくさまざまな人との関係とかそこの中での小さな動きの中の気付きみたいなものによって、そのプロセス自体に意味があるんだという言い方ももちろんできていくかなと思うんです。おそらくそういった形でディレクターの方が考えられていると思うんだけど。行政の方たちがその様な形でアートプロジェクトを捉えられているのかはどうもちょっと違うんじゃないかなと思うんですけれども、そのへんは実際僕なんかよりも行政の方といろいろなプロジェクトの経験がある方、あるいはそこの事例を知っている方から何か発言していただけませんか。

行政とアートプロジェクト――大阪

雨森: そうですね、私自身も大阪市と2002年から仕事をしてきたんですけれども、大型のアートフェスティバルと違って、文化振興の枠組みの中で事業を展開しているというところで、地域再生とか地域活性化、また来場者数を問うイベント性を求めるものではなかったというのは極めてラッキーだったと思います。ただ、大阪市も市長が変わって文化事業も大変なことになっていますけども、それまでも紆余曲折がありまして、当初始まった頃から担当者もどんどん変わっていく中で、市のアクションプランもがらっと変わったりだとか、そんな中で、「ブレーカープロジェクト」も首の皮一枚でつながってきたというところがあると思います。「ブレーカープロジェクト」というのは、少しずつエリアを広げつつも、10年同じ地域で活動しているアートプロジェクトなんですが、6年目くらいからでしょうか、行政側から別の地域で展開できないのかと言われるようになりました。大阪市の中でこの場所だけで事業を展開しているというのは行政としては平等性に欠けるからまずいというわけですね。でも本当の意味で地域に根ざすには継続する必要があると、なんやかんや理由をつけて同じエリアで活動を続けているというのが現状です。

昨年から市のアクションプランが新たに策定され、このプロジェクトの枠組みが人材育成になったんです。もちろんこれまでも、実践を通して若手アーティストやサポートスタッフだったりが育成されていくということはプロジェクトの目的としてはあったわけですが、人材育成を第一の目的とはしてなかったんです。 新しくなったアクションプランに沿って、大阪市の要求を満たしつつ、これまでのようなプロジェクトの本質を変えずにどう実現していくかということに知恵を絞る必要がありました。「ブレーカープロジェクト」は公共の事業であるべきだと考えているので、行政の事業として継続していくということを優先したいと考えているからです。

杉田: そこでは継続性っていうのは考えられる全てですか。

雨森: そうですね、その場所に根ざして活動を継続していくことでしか、アートがその町、場所に及ぼす影響、効果が見えてこないと考えているからです。アートがあることで人々の意識が変わり、町がどのように変化していくかというところが私の一番の関心ですので、継続性というのは重要なポイントです。でもやはり行政の予算ありきのところもあるので、いつ予算がなくなるかわからないという状況は常にあって。  予算がなくなった時にその地域でこれまでやってきたことがすべてなくなってしまわないように、残していく仕組みも考えるようになりました。例えば、昨年からは人材育成の一環として、地元の住人でいつも協力してくれる人たちを地域コーディネーターと位置づけて、より連携、協働する機会を意識してつくるようにしています。もうひとつは、昨年から古いアパートを活用して地域に根ざした創造活動拠点をオープンしたんですが、ここでの狙いは、そこを若いアーティストなどにアトリエとして一部屋ずつ借りてもらって、その家賃を大家さんに入れる。そうすることで、万が一プロジェクトの予算がなくなったとしても、その場所は継続されるのではないかと。

 

その場所が残り、地域コーディネーターの人たちが残っていっていくと、このエリアで蒔いた種、活動は何かしらのカタチで継続されていく可能性があるのではと考えています。現在、継続については、そういうことを考えながらやっているんですけれども、ちょっとずれてきましたね。行政との関係においては、常に行政が何を欲しているかということを探りながら、いかにアーティストと地域の中で双方にとって意義のある実験的なプロジェクトをやり続けるかということに挑戦しているという感じでしょうか。

杉田: もう少し大枠からみた時には、例えば文化施設の位置付けっていうのが少しずつ変質しているのかなと思うんですけど。

2013年8月29日   カテゴリー: シンポジウムシンポジウム ニュースニュース
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